心と体

2014年5月18日 (日)

●ルルドの聖母(泉)と奇跡…!!

べルナデッド◎◎フランスのピレネー山脈の洞窟ルルド
◎ルルドの聖母(泉)と奇跡…
†カトリック教会では5月と10月は聖母マリアの大切な月でありロザリオを中心にお祈りを捧げます。その第一弾としてルルドの聖母を取り上げたいと思う。
・[伝説]1858年(安政5)2月11日フランス南部の寒村ルルドで奇跡は起きた。ルルドとは、南フランスの町の名前である。14歳になる羊飼いの少女べルナデッド・スビルーはこの日、妹トワネットと友達のジャンヌと一緒に、薪を拾うため、ピレネー山脈にあるルルドのマッサビエルの洞窟へ入って行った。少女達は洞窟の前に流れるガブ川につくと、まずはジャンヌ川を渡り、次いでトワネットが渡った。そして最後べルナデッドに渡る順番が来た時。彼女自身の言葉によれば、「片方の靴下を脱いだ時、風の音のようなものが聞こえてきた」という。奇妙な風の音を聞いたべルナデッドは、すぐに周りを見回したが原因はわからない。しかし目の前の木の枝が動いていたことに気づき、さらにその上にある洞窟の右側のくぼみに視線を向けると、「柔らかい光に包まれ、白いベールと服、そして青い帯をした若く美しい女性」が見えたという。最初、この女性に対してべルナデッドは恐れの気持ちを抱いた。しかし、光に包まれた貴婦人が微笑みを浮かべながらロザリオを持って十字を切ったあとでは、恐れの気持ちがなくなっていたという。そのため彼女はロザリオの祈りを唱えることができた。貴婦人も声は出さなかったがべルナデッドの祈りに合わせてロザリオの珠を爪繰っていた。そして15分ほど経つと、貴婦人は金色の雲に包まれて消えてしまった。これが、この後も含め計18回出現する、聖母マリアのルルドの最初の目撃の様子である。以降、聖母マリアが目撃されたマッサビエルの洞窟の上には教会が建てられ、9回目の出現で聖母マリアのお告げ通り、足元の土を掘ると洞窟の前に清水が湧きだし、この霊泉で難病が治るなどという奇跡が起こった。この奇跡にあやかりその後世界各地でこのルルドを模倣し、聖母マリア像を収めた[ルルド]が造られるようになった。本場のルルドは地名だが、日本では「奇跡の泉」や巡礼地の意を込めた固有名詞として使用されている。ちなみに、べルナデッド自身も死後に遺体が腐敗しないという奇跡を起こし、キリスト教公認の聖人となっている。

2014年4月 6日 (日)

●イエス・キリスト「十字架上の最後の七つの言葉」…!!

◎キリストの磔刑◎キリストの磔刑
◎「聖書」の言葉には、神秘的な数字「七」に関する言葉がいくつも述べられている。例えば、天地創造がつくられたのが七日間。旧約聖書創世記「あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り…(創世記7:2)中略「空の鳥を七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜雨を降らせ、…(創世記7:3~4)中略七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。(創世記7:10)とある。また、新約聖書に関しては、特にヨハネの黙示録に様々に述べられている。七つの教会、神の七つの霊と七つの星、七つのともしび、七つのしょくざい、七つの封印、七つの角と七つの目、七人の天使と七つのラッパ、七つの災い、七つの鉢……またカトリック教理に「七つの秘跡(サクラメント)」がある。今回はイエス・キリストが「十字架上の最後の七つの言葉」について取り上げようと思う。
†第一の言葉
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34)午前9時に十字架につけられた時の言葉である。
†第二の言葉
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書23章43節)
†第三の言葉
「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネによる福音書19章26~27)母マリアと弟子ヨハネに言われた言葉であり、弟子ヨハネに母マリアを支えることを依頼した。イエスの言葉を聞いたヨハネはイエスの言葉を悟り、母マリアを連れて十字架のそばを離れエルサレムの自分の家に引き取ったとされる。
†第四の言葉
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味。(マルコによる福音書15章34)「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイによる福音書27章46)三時頃にキリストが大声で語った。大声とは全地に響き渡っていくという意味がある。詩編22篇と関連のある言葉である。神への呼び掛けはマルコは「アラム語」の「エロイ」、マタイは「ヘブル語」の「エリ」である。
†第五の言葉
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。(ヨハネによる福音書19章28)詩編22篇16、詩編69篇22もしくは詩編42篇3の成就であると考えられ、この言葉を兵士は肉体的な渇きであると理解して、酸いぶどう酒を持ってきた。
†第六の言葉
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音書19章30)
兵士達が差し出した酸いぶどう酒を受けた直後に、この言葉を語った。これは旧約聖書の預言がすべて成就して贖罪の業を完成したという意味である。
†第七の言葉
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカによる福音書23章46)

2014年3月 5日 (水)

●灰の水曜日とは?…!!

◎灰の水曜日…前年のしゅろを燃やした灰を聖水とオリーブ油で混ぜ祝別し司祭が信者の額に十字の印をつける。
◎灰の水曜日…灰の水曜日は、キリスト教カトリック教会をはじめとする西方教会の典礼暦年のうちの1日。四旬節の初日(復活祭の46日前)に当たる。元来はカトリック教会の行事であるが、その流れを汲むプロテスタント教会(聖公会、ルーテル教会など)でも行われる。東方教会では行わない。カトリック教会ではこの日大斎及び小斎が守られるのが標準となっている。一般には典礼色は紫を使用する。この日の典礼では、前年の枝の主日(聖週間の初日となる主日、即ち復活祭の1週間前)に使用されたなつめやし又はしゅろの枝(北方地域では猫柳が使用される)などを燃やした灰の祝別式と塗布式が行われる。
①なぜ灰の日と呼ぶのか?…それは、この日にキリスト教徒が教会で額に灰で十字架の印をつけた儀式からきています。初期キリスト教時代、信徒は粗末な衣服をまといちりと灰の土に座り、それを頭に振りかけながら、断食を行ったとあります。その後灰の土に座る代わりに額に灰をつける習慣に変わりました。
②額の印や灰については聖書の中に色々と言及されています。その意味するところを理解する為幾つかの箇所を引用します。
③額の刻印・ヨハネの黙示録では「額に刻印を押されている者の救済」について述べられています。
†神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは……
†その額には子羊の名と、子羊の父の名とが記されていた。…即ち額の印は、キリストの僕であることを示しています。ローマ書6章ではパウロは「義の奴隷」となると表現しています。
④なぜ灰で刻印されるのか?…聖書では灰は悲しみや悔い改めの印として用いられていました。又、灰は死を意味します。即ち、人間は結局は死ぬものである事を思い出させます。司祭が信者の額に灰で印をつける時に創世記の3章19節を引用します。お前は額に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。ヨブ記34章15節:生きとし生けるものは直ちに息絶え人間も塵に返るだろう。詩編90編3節:あなたはヒトを塵に返し「人の子より帰れ」と仰せになります。コヘレトの言葉3章20節:すべてはひとつのところに行く。すべてはちりから成った。すべては塵に返る。こうしてキリストの死を悲しみ人間の罪を悔い改めつつ受難節を守ります。
*典礼は、灰の水曜日から四旬節に入り、イエスが伝導生活に入られる前、砂漠で40日間断食されたことから教会の伝統では断食、節制が行われた。日本では、四旬節のはじめである灰の水曜日と主の受難(聖金曜日)を、大斎小斎の日と定め大斎や小斎は自分の心を神や人々に捧げることのしるしです。四旬節は、洗礼の準備・回心と罪の償いという性格をもち、3世紀頃から四旬節を洗礼準備の季節としてきました。この期間、洗礼志願者だけでなく、全教会の信徒たちが志願者たちの為に祈り、又自分たちの洗礼の時を思いだし、、洗礼の約束を更新する準備をします。
※灰の式:司祭は聖水をかけて灰を祝別し、「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と唱えながら、灰で額に十字の印をします。

2014年2月24日 (月)

●『君が代』と神の民…!!その②

◎イスラエルの国旗◎伊勢神宮の内宮から外宮に至る道路(御幸通り)の両側に並ぶ石灯籠(合計約700基)には、不思議なことに「カゴメ紋(六芒星)が刻み込まれている。カゴメ紋は別名「ダビデ王の紋章」といわれ、ユダヤ人のシンボルになっている。
†君が代(ヘブライ語訳)
立ち上がれ、神を讃えよ! 神の選民 シオンの民! 選民として 喜べ! 人類に救いが訪れ! 神の預言が成就する! 全地あまねく宣べ伝えよ!
このヘブライ語訳はまさに『言霊(ことだま)』の意味であろう!日本語の中に本来古来より備わっている「音声の響き」に重要性があるということである。なぜならそれは古代ヘブル語、古代イスラエルの民の言葉が響き渡るからである。その後、日本へ来て、現地に対応し東洋化しさらに漢字文化に入るがその時に「当て字」が付けられて意味が変わる。しかし、その響き自体に本質が宿る。この事実を忘れさせないために『言霊』という概念が生み出され伝承されたのだろう。したがって、もし古代ヘブル語やヘブライ語を知っているものが日本の歌や言葉を聞いた時、強烈なメッセージを受けることになる。古代ヘブル語とカタカナはほとんど同一であり、戦前日本は左から書けば「ラーコカコ」となるが、これはそのままヘブルライ語で読める日本の古いものほどその真実が込められているというのはまず間違いのないことなのである。京都の「祇園祭」は、ほとんどユダヤの「シオン祭」と同一だというのはすでによく知られている事実である。開催日7月17日で同じ。期間も同じ。催しの流れも同じ。違うといえば行う人間の見てくれだけである。しかしそれは、約3000年の時の流れが生み出した幻影のようなものである。極東へ行ったものと極西へ行ったものの運命にすぎない。
◎12支族と日本人…
12支族のうちの何族が来たか、ということなのだか、帝(みかど)今の天皇家の先祖は「ガド族」である可能性が非常に高いと考えられる。先のウクライナの伝説では1士族岳が日本へ来たという話しだがそれはこのガド族を指していると思われる。しかしながら、ここ徳島にはもう一つの天皇家の傍系がある。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする忌部(いんべ)氏である。四国には古事記より古い謎の奇体を称されるものがある。阿波の先祖は天皇家と一緒に来た民族であると考えられているのである。そして地元の民族研究家の話しでは「マナセ族」と「エフライム族」だという。だから、日本へは3支族がやって来たという可能性が高いのである。日本の神社(八幡神社)を整備したといわれる秦氏というのは、ずっと後になって来た「影教」(プロテスタント系)と言われているから、日本全国に神社ができるずっと前にここ阿波徳島には神社が存在したのである。そして、イスラエルのシオン山を真似たと考えられているのが「剣山」なのである。もともとシオン祭こと、祇園祭は阿波で始まり、それが奈良方面に移りそれから京都へ伝蕃したのだという説もあるくらいだから、日本の古代における本来の「京都」とは徳島なのである。日本人の先祖は古代イスラエル(重ねていうが今のイスラエルは全く異なる、バビロンの子であるから、似て非なるものどもである)であったというのは、まず間違いない。実際「DNAの遺伝子研究」でも証明されている。国家でマイナー(短調)を貴重としているのは、日本とイスラエルくらいのものである。
★補足…
1903年(明治36年)ドイツで行われた「世界国歌コンクール」で「君が代」は一等を受賞した。そして「君が代」が海外で大絶賛!「世界で最も美しい国歌」「心の奥底に響く」「日本は素晴らしい国」と称している。ちなみに国歌「君が代」には二番目も存在するそうです。

2014年2月16日 (日)

●『君が代』と神の民!!…その①

◎国歌『君が代』◎バジル・ホール・チュンバレン
◎君が代とは、日本の国家である。明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ、以後は国家として扱われるようになった。1990年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌である。…
♪君が代は
千代に 八千代に
さざれ 石の
巌(いわお)と なりて
苔(こけ)の むすまで
バジル・ホール・チュンバレン翻訳の『君が代』バジル・ホール・チュンバレン(1850年10月18日~1935年2月15日)は、イギリスの日本研究家で元東京帝国大学文学部の名誉教師である。俳句を英訳した最初の人物で『古事記』などの英訳などでも知られる。
A thousand years of happy life be thine!Live on,my Lord,till what are pebbles now,By age united,to great rocks shall growwhose venerble sides the moss doth line.
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように 我らが主よ 治めつづけ給え,今は小石であるものが 時代を経て、集まりて おおいなる岩となり 神さびた その側面に苔が生(は)える日まで
・国家君が代、本当の意味を知っている人はどれだけいるのだろうか…?それは日本人のルーツを知らなければ分からない。般若心経なども文字だけでなく音でしか解釈できないことは知られてイルが君が代も音で本来の意味を伝えようとする意図が隠されている。これがわかると、何故闇の勢力偽ユダヤ(アシュケナジーユダヤ)が日本だけを執拗に攻撃するのが分かります。私たちの血の中には真正ユダヤ(スファラディーユダヤ、人類の始祖アブラハムの子孫)が受け継がれているからである。
†ヘブライ語の君が代
君が代は―クムガヨワ(立ち上がる)
千代に―テヨ二(シオンの民)
八千代に―ヤ・チヨニ(神・選民)
さざれ石の―サッ・サリード(喜べ・人類を救う,残りの民として)
巌となりて―イワ・オト・ナリャタ(神・預言,成就する)
苔のむすまで―コ(ル)カノ・ムーシュマッテ(全ての場所,語られる鳴り響く)・君が代(ヘブライ語訳)
立ち上がれ! 神を讃えよ! 神の選民 シオンの民! 選民として 喜べ! 人類に救いが訪れ! 神の預言が成就する! 全地あまねく宣べ伝えよ!

2014年1月19日 (日)

●守護天使とは?…!!

◎守護天使◎悪魔から子供たちを守ら守護天使
◎守護天使…
†守護天使とは、一人一人についていて守り導く天使のこと。神が人間につけた天使で、その守護する対象に対して善を勧め悪を退けるようその心を導くとされる。カトリック教会、正教会などキリスト教のある教派で信じられている。日本ハリストス正教会では守護神使ともいう。キリスト教守護聖人と同様、洗礼を受けたもののみに付くと説かれる。出生時に与えられる守護霊の概念のキリスト教化されたものと考えられる。キリスト教において守護天使の概念が確認できる最も古い文献は、偽ディオニシウス・アレオパギタである。ローマ・カトリック教会でかつて守護の天使が盛んに信心の対象にされたが第二バチカン公会議以降ほとんど触れられることはない。公式の方針を持たないが、個々のキリスト教徒を導く守護天使が二人いて、一人は右にいて個人を善に導き、もう一人は左にいて悪に向かわせると言われている。カトリック教会での守護天使の祝日は10月2日である。
†キリスト教における守護天使に関する教義は神学者トマス・アクィナスによって集成されている。トマスによると全ての人々、クリスチャンであれ、それ以外であれ、たとえ大罪人であれ、決して離れることのない守護天使がついているとする。守護天使とその守護する人間との関係について、守護天使は、人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にも、それを止めさせることはしないが、その心を照らして良い方向に向けて霊感を吹き込むことだけをするという。さらに守護天使とのコミュニケーションについて、人は天使に語りかけることが可能で、天使たちはその必要性、希望、欲求によって人間に語りかけ、啓豪するとしている。カトリック教会は、聖書における守護天使に関する記述は次の通りとしている。「あなたには災難もふりかかることがなく天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」(詩編91.10・12)「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ18.10)
・天使は全存在をあげて神に仕える者、神の使者です。
・天使は純粋に霊的な被造物として、知性と意思を備えています。
・人間は生まれてから死ぬ時まで、天使たちの保護と執り成しを受けています。信者は保護者のような守護の天使に付き添われ、守られています。
◎265代ローマ教皇ベネディクト16世は、10月2日(守護天使祝日)におけるサンピエトロ広場に集まった信者へのメッセージで守護天使について次のように述べている。「親愛なる友人の皆様。主(「イエス・キリスト」を意味する。以下同じ)はいつも近くにいて、人類の歴史の中で働かれておられます。主はまたご自分の天使たちの特別な現存をもってわたしたちとともにいてくださいます。今日、教会は天使たちを「守護の天使」、すなわちすべての人に対する神の気遣いの奉仕者としてあがめます。人間のいのちは、初めから死ぬ時まで天使たちの絶えざる保護に包まれています。天使たちは、勝利の元后であるロザリオの聖母の冠でもあります。(以下略)
†17世紀後半のクレメント10世の時代に10月2日と固定設定され、守護天使の記念日として定められたのは19世紀後半、教皇レオ13世の時代である。

2013年12月24日 (火)

●クリスマスとは?…サンタクロースとは?…!!

◎映画「マリア」より!◎聖人「聖二コラス」
◎あめのみつかいより!
◎クリスマスとは?…
約2千年前、今のヨルダン川西岸岸にあるベツレヘムで、イエス・キリストが生まれました。教会は4世紀から、12月25日をその誕生日として祝っています。「クリスマス」とは「キリストのミサ」という意味の英語です。ミサはカトリック信者の礼拝であり、大切な"祭り"です。イタリア語では「ナターレ」(誕生)、ドイツ語では「バイナハテン」(聖夜)などと言います。
◎聖書の中の降誕…
イエスの誕生の様子は新約聖書の中のルカによる福音書とマタイによる福音書に書かれています。母の名は「マリア」、その夫は「ヨセフ」。ルカは、イエスが旅先で生まれ、宿がなく、飼い葉おけに寝かされたと記しています。東方からは占星術の学者たちが不思議な星に導かれて、またこの地方で羊の番をしていた羊飼いたちは天使たちのお告げを受けて、幼いイエスを拝みに行きました。
◎クリスマスの歌…
「あめのみつかい」の邦題で知られる聖歌は、ベツレヘムで生まれた幼子が「救い主」であると告げた天使たちの賛美を歌にしたものです。また有名な「きよしこの夜」は、19世紀初め、オーストリアの貧しい教会で、ギターで作曲されました。この歌は国を越えて歌われ、第二次世界大戦末期のクリスマスに、敵対する独軍と英軍が川を挟んで共に歌ったという逸話もあります。
◎いつまで祝う…
教会は降誕祭(クリスマス)前の約4週間を待降節(アドベント)と呼んでさまざまな準備をし、1月6日直後の日曜日までを降誕節として誕生を記念します。1月6日は伝統的な「主の公現」の祭日で、イエスが異邦人(三人の学者)の礼拝を受けたことを祝います。降誕祭からこの日までの12夜は、欧州では霊がさまよう期間とされ、シェークスピアの戯曲などにも描かれてきました。
★彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(新約聖書『ルカによる福音書』2・6-7)
〓サンタクロースとは?…
聖二コラス-「海を守護し、子供を守る聖者」
世界中で最も有名で、子供から大人にまで親しまれている聖人が、この聖二コラスである。別名『サンタクロース』といえば、お馴染みであろう。サンタクロースとは、「セント・ニコラス」がなまったもの。二コラスは小アジア(現在のトルコ)のリキア地方のパタラという町の富豪の家に、270年頃生まれた。両親の死後、この金持ちの御曹司は、莫大な財産や財宝を貧しい人に分け与え、やがて哲学、神学をおさめる。そしてミュラという町の司教となる。ニコラスの奇跡は、とりわけ海運に関するものが多い。ある時、ミュラの町が大飢饉に見舞われた。農作物はすべて枯れはて、住民は激しい飢えに苦しむ。その時、エジプトのアレキサンドリアから麦を運搬する船が漂流。町民は麦を分けてほしいと騒ぎ出すが、皇帝の命令で運搬しているから分け与えることはできない、と船員たちは抵抗する。ニコラスが船長と交渉し、「神の行いをすれば、必ずよいことがあるのです」と説き伏せ、かなりの量の麦を分けてもらう。だが不思議なことに、目的地に到着した船の麦は、少しも減っていなかったという。遭難した船も、たびたびニコラスによって救われた。嵐で海が荒れたとき、船員たちが祈ると、ニコラスの姿が現れて、嵐は静まり助かったという。船員たちがニコラスに事情を話すと、「私が助けたのではない。信仰が救ったのです」と、穏やかに語る。それらの奇跡から、ニコラスは船員や商人、船や海の守護聖者となった。騒ぎの伝説を生んだのは、次のようなエピソードから。まだ司教になる前、近所に貧しい靴屋がいた。三人の娘を抱えながら、嫁入り支度の金もなく、娘を売り飛ばそうかと悲嘆にくれた父親を知って、ニコラスは、嫁入りに必要なお金を靴屋の二階の窓からそっと投げ入れた。父親はこの金を、天のお恵みとして喜んで使った。長女、二女の嫁入りと、二回にわたる不思議な出来事に、さすがの靴屋も三女のとき、ニコラスの施しだとわかった。靴屋が彼の足に接吻しようとすると、ニコラスはこれは秘密だよと言って、静かに去っていった。この他、ニコラスの祈りで死んだ子供が息を吹き返したという奇跡から、子供を守る聖者ともいわれ、ニコラスへの信仰は、小アジアからヨーロッパ各地へと広まった。その後、聖人の祝日の前夜に子供にそっとプレゼントするという慣習とクリスマスが結びつき、サンタクロースへと変わった。赤い衣装を身に着けた温和でやさしいサンタクロースは、ニコラスの姿そのものであろう。

2013年11月25日 (月)

●不思議のメダイ…!!

◎不思議のメダイ-表◎不思議のメダイ-裏
◎聖女カタリナ・ラブレ/1806年5月2日~1876年12月31日
◎不思議のメダイについて…
・メダイの起源―1830年4月にカタリナ・ラブレはパリのバック通りにある愛徳姉妹会本部修道院に入会しました。入会後、1830年7月18日から19日にかけての夜、彼女は初めて聖マリアのご出現を経験しました。最も重大なのは1830年11月27日のご出現です。彼女は後に、その時のことを次のように話しています。それは、地球の上に立っているマリア様のようなご出現で、広げた手からは光が輝き出ており、カタリナは、「この光は、処女マリアに願う人々のために、彼女が神からいただいてくださる恵みのシンボルです」という声を聴きました。聖母のみ頭(かしら)の周囲には星があり、お姿の周りに「ああ、けがれなくお宿りになられた聖マリア、あなたにより頼む私たちのためにお祈りください」の言葉が見えました。すると、その全体の"絵"のようなお姿がくるりと回り、その裏にカタリナは、"M"という文字と十字架、そしてイエスとマリアのみ心を見ました。更に、み声が聞こえ、「このモデルに従ってメダイを作りなさい。祝福されたこのメダイを身に着け、『ああ、けがれなくお宿りになられた聖マリア、あなたにより頼む私たちのためにお祈りください』という短い祈りを唱える人には、神の母の特別な保護が与えられます」といわれました。彼女は、聴罪司祭以外には誰にもこの事を話しませんでした。初め、聴罪司祭は懐疑的でしたが、後にパリの大司教にこの事を話したところ、大司教はメダイを作るように許可を与えてくれました。最初のメダイは1831年6月に作られ、無原罪の聖母の取り次ぎによる奇跡的ないやしがあまりにも多く行われたため、1834年の初めには、このメダイが"不思議のメダイ"として知られるようになりました。
◎メダイの意味…
・〈メダイの表〉マリアは創世記の「わたしは、お前と女の間に敵意を置く」(3・15)の"女"として、また新しい"エバ"としての意味を持っています。またマリアは、無原罪の御宿り、あらゆる時代における女性の完全な模範、そして聖霊の力により、御父のいのちと愛への"なれかし(はい)"によって、御子イエスをこの世にもたらした、いのちと愛の開かれた道を意味します。更にマリアは、ヨハネの黙示録の「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の冠をかぶっていた」(12・1)の女を意味し、私たちが彼女を祝福し、「ああ、けがれなくお宿りになられた聖マリア……」と祈るように教えています。マリアは、世の光であるイエスの霊に輝いており、蛇の上に立って、サタンに打ち勝ったキリストの勝利を宣言しています。マリアはキリストと共に歩むことを選んだ人々に、恵みの道を照らし、私たちが、「あなたにより頼む私たちのためにお祈りください」と助けを願い、彼女の照らしによって歩むよう招かれます。
・(メダイの裏)十字架の下に"M"という文字があります。これは"マリア"と"母"のMを意味します。マリアは、十字架の上で亡くなられた神の御子の母であり、キリストのみ心が槍で刺しぬかれた時、その場に立たれ、それを目のあたりにし、聖母のみ心も悲しみの剣で刺し通されました。マリアは、また、彼女の子である私たちから成る"教会の母"でもあります。現在、復活したイエスのみ心が私たちへの愛に燃えているように、マリアのみ心も燃えています。マリアは苦しみをよくご存じなので、私たちの心が悲嘆や孤独の剣で刺しぬかれる時の気持ちをよく理解されます。ですから、不思議のメダイは"お守り"ではありません。それは、マリアがどのような方であるか、そしてマリアが私たちのために何をなされるかについての教えなのです。メダイを身につけることは、マリアの私たちへの愛の印であり、私たちのマリアへの信心の証しなのです。

2013年10月31日 (木)

●聖痕を受けた聖女たち!!…③

◎シエナの聖カタリナ◎アンナ・カタリナ・エンメリック
◎シエナの聖カタリナ…キリスト教(カトリック教会)の聖女。(1347~80年)シエナで生まれる。16歳でドミニコ修道会に入る。シエナとイタリアの守護聖人。ローマの第二の守護聖人。シエナ派の美術作品に多く描かれる。ドミニコ会修道女の白の衣と黒のマントの出で立ちで手に十字架とユリを持ち、しばしば悪魔を踏みつけている。アヴィニョンに教皇庁があった1375年、聖フランチェスコ同様、聖痕(磔の刑のキリストと同じ傷跡)を受けたと伝えられる。後にイタリアからアヴィニョン大使夫人として送られ、ローマに教皇庁を移すことに尽力している。またアレクサンドリアの聖カタリナと同様、聖母に抱かれたキリストの「神秘の結婚」を行う幻影を見る場面が描かれることもある。服装で見分けることができる。
*シエナの聖カタリナの画像カテゴリー「ポーランドのエクソシスト③」も参照
◎アンナ・カタリナ・エンメリック…
エンメリックはドイツのコースフェルト近くの農村で1774年9月8日-1824年2月9日。9人の兄弟姉妹の長女として育った。伝記によれば、幼少の時から数多くの神秘体験をしている。両親は大変貧しかったので幼い時から農場で働かなければならず、学校教育は受けた期間が短い。農場で3年間働き、そこで裁縫を覚える。修道院に入ることを願い、当時条件として持参金が必要な為に、裁縫の仕事や使用人などをして得た収入を蓄えた。家族を養う為にその貯金を使わなければならない時もあり、十分な貯金を蓄える為に数年かかった。1802年、28歳でようやく聖アウグスチヌス修道院へ入ることになる。ある伝記によれば、エンメリックが「荊冠(けいかん:キリストが頭に受けた、いばらの冠)」の形をした「聖痕」を頭部に受けたのは1798年、修道院に入る4年前であると自身が語っている。それによると、教会で祈っていると、キリストが目の前に現れて、花の冠と荊冠を持ち、どちらを取るか選ぶように言ったと言う。エンメリックが荊冠を選ぶと、キリストはエンメリックの頭にそれを乗せ、その冠を両手で押しかぶると、キリストの姿は消えた。その直後に頭部に特に額とこめかみに激痛が走り、翌日以後は、荊冠の跡のような傷が頭部に現れた。その後、傷は流血を伴うようになり、痛みは昼夜続く場合もあった。エンメリックは友人たちの勧めで、頭部の傷口を隠すような被り物を身に付けるようになった。エンメリックはこの「聖痕」について、修道院に入った後は秘密にしており、流血に気付いたシスターは一人だけで、そのシスターはずっと秘密を守り通したという。「聖痕」は12年間続いたといわれている。
*エンメリックが幻視したイエスの最期は、2004年にメル・ギブソン監督によって映画化された『パッション』-キリストの受難。
2004年10月3日に尊者-神秘家と呼ばれた称号は故聖ヨハネ・パウロ二世により正式に列福されました。

2013年10月29日 (火)

●聖痕(スティグマ)が現れた聖人…!!②

◎アッシジの聖フランチェスコ聖◎聖痕があるピオ神父の手…ピオ神父は、1918年9月20日懺悔を聞いている時最初の聖痕を体に受けたと言われている。傷、痛み、出血の位置と数は磔によって出来たイエス・キリストの傷と一致している。
◎映画「ブラザーサン・シスタームーン」◎youtubeより「ピオ司祭(パドレ・ピオ)」
◎アッシジの聖フランチェスコ…
1224年にラヴェルナ山中において六翼の天使から聖痕を受けたとされている。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5カ所の傷(両手、両足と脇腹)と同じものが身体に現れたものを言い、キリストの模倣を徹底させようとしたフランチェスコの高い精神的境地を象徴する奇跡とされている。キリスト教世界では、聖痕の報告例は少なからず有るが、フランチェスコのそれは、聖痕の最初の事例であり、数少ない男性の事例でもある。
*フランチェスコの関連映画…「ブラザーサン・シスタームーン」
監督/脚本:フランコ・ゼフィレッリ
主演:グレアム・フォークナー /イタリア・イギリス合作 /1972年
「フランチェスコ」
監督/脚本:リリアーナ・カヴァーニ
主演:ミッキー・ローク1989年/イタリア
◎ピオ神父…
霊的穿刺と聖痕…ピオ神父の手紙によると、聖職についた初めの頃から後に神父を有名にする聖痕の不鮮明な徴候が既に現れていた。1911年ピオ神父は、霊的な指導者であるサンマルコ・イン・ラーミスのベネデット神父に手紙を書き、自身に一年間続いた経験についてこう書いている。"昨晩、私には説明することも理解することもできない、何かが起こりました。私の両手の掌の中央に、1チェンテシモ(1ペニー)ほどの大きさの赤い印が現れました。そしてその赤い印の真中は激痛を伴いました。その痛みは左手の真中の方がより強烈で、未だにそれを感じるほどです。また、足の裏に若干の痛みがあります。ピオ神父は十字架の前で聖痕を受けたという。…中略…神父は痛みが取り除かれることを望まず、目に見える傷だけを主(イエス・キリスト)に取り除いてもらおうとした。目に見える傷は、言葉で表しようがなく、ほとんど耐えられない屈辱であると当時考えていたからである。目に見える聖痕はその時は消えたが1918年9月に再発、しかしその痛みは残り、日によって、また状況によってより激しくなったと述べている。また冠とムチの痛みを実際に経験しているとも語った。この経験の頻度は、はっきりとわからないが、1週間に一回、少なくとも数年間は苦しんでいると言った。これらの経験はピオ神父の健康が衰える原因になったと言われている。またそのために故郷にいることを許された。中略…この時の聖痕は、その後の生涯の50年間体から決して消えることはなかった。
*you tubeにてピオ司祭・神父(パドレ・ピオ)-イタリア映画/日本語・英語字幕付き/監督:カルロ・カルレイ
†日本では映画もDVDも公開レンタルされていないので貴重な動画です。

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